夏の帰省、母のいない実家
先週の8月10日から兵庫県の実家に帰省している。
母の転倒事故以来、初めての夏の帰省だ。
去年まで、帰省の度に母に言っていた「今年の夏も暑いね~」という挨拶も今年からは出来なくなってしまった。
「当たり前」「当然」「いつでも出来る」と思っていた事は、ある日を境に突然否定される。
「日常」だと思われたことが「非日常」となる瞬間。それは誰にでも訪れる。
年齢を重ねる事=出来なくなる事が増える事
人間は成長する。
生まれたばかりの赤ちゃんは成長とともに寝返りを打つようになり、言葉を喋るようになり、一人で歩くようになり、やがて自我を持ち始める。
肉体的・精神的なピークを迎えるまでの間、人間は出来る事がどんどん増えていく。
だけど僕を含め、折り返し地点を過ぎた人間はそれとは逆に出来る事がどんどん減っていく。
あと10~15年もすれば、僕は元気に走り回る事も、夜通し遊ぶことも、レジャーを楽しむことも出来なくなるかもしれない。
肉体的にも精神的にも経済的にも、僕は今がピークだと思う。
だからこそ、「今」を最高に楽しみたい。
『健康×経済力』はいつまでも続かない。それは自分が一番よく理解しているつもりだ。
母は今が一番幸せかもしれない
父と結婚して以降、ずっと経済的な事で悩んでいた母。
もちろん、母の浪費癖も悪いのだが、今はそんな苦労や悩みからも解放されている。
家賃(ローン)や水道光熱費の心配もしなくていい。
炊事洗濯、家事全般、経済活動の全てから解放されて自由になった母。
高次脳機能障害になった母を見ていると「人間、何が幸せなんだろう?」と考えさせられる。
「不安のない生活」を幸せとするならば、母は今、地球で最も勝ち組な人間であり、僕は最も負け組な人間だ。
僕はそんな「生きる努力から解放された母」を羨ましく思っているのかもしれない